「さて、どうやら……」 遠くから眺めていた肥満男がゆったりと揺れるように近づいてきた。 「完全に『堕ちた』ようですねぇ……クククク……」 床に伏して甘ったるい息を吐き続けているメグをのぞき込みながら、男は不気味な含み笑いを漏らした。わずか数十センチの距離に近づかれてなお、刃向かう気配すらなくただ快楽に溺れて悶えるメグの姿には、鬼神と呼ばれた戦士の面影はなかった。 「それでは、あなたの『喜力』を吸い取らせていただきますよ。なに、心配することはありません、すぐに『ゆらぎ』になってしまうわけではありませんから。アイさんと同じ姿になって、体中で快楽を味わうことが出来るのです。素敵でしょう? 想像するだけで身体の芯が熱くなってきませんか?」 講釈を垂れながら、男はメグの側にしゃがみ込み、返答を求めるように顔を近づけて語りかける。 それは極度に警戒心の全くない状態、すなわち全く油断した状態だった。 その身体のどこにそんな力が残っていたのだろうか。その精神のどこにそんな意志が残っていたのだろうか。 メグは倒れたまま身体を軽くひねると、目の前に迫っていた丸い脂肪腹に右手を思い切り突き入れる。その眼は再び意志の光に満ちたものになっていた。 既に捕まえて籠の中に放り込んでいたはずの獲物の思わぬ反撃に、男は驚きの色を見せる。だが、彼が対処を考えて動くよりも先に、メグは呪文を唱えていた。 「焼熱!」 「……っ!? ぐっ、ああああああああああああああぁぁああっ!」 男の腹肉に埋もれたメグの右手が炎に包まれる。腹の脂肪に引火した炎はあっという間に大きくなり、天井を焦がさんばかりに燃え上がった。炎によって生じた風圧でメグとアイはまとめて吹っ飛ばされる。 「あぐうおおおぉおおっ、馬鹿なぁっ! 魔法だと!? そんな力をどこに残していたと……くあああ、身体が熱い! 私の身体が燃えてゆくううううううぅっ!」 身体を苛む高熱に絶叫しながら男は床をのたうち回り、必死に火を消そうと転がり回った。その心を支配しているのは単に『熱い』という生理的な苦しみだけではなく、完璧に事を運んだはずなのに自分が致命傷を負ってしまった、という事実に対する信じられない思い、認めたくないという必死な思いだった。 「何故だぁっ! 完璧なはずの私が……負けるだと? こんな炎などに焼かれて滅びるというのかあっ? おのれ、おのれえええぇっ! 滅びてたまるか! 私は特別な能力を持つ特別な存在なんだ! たとえこの世界の全ての生き物が『ゆらぎ』に支配されようと、最後まで生き残るのはこの私だ! こんなところで、こんなところでええぇっ!」 「ウフフ……それって凡人の陥りやすい思考パターンよ?」 半ば炭化した自分の右腕を見つめながら、今度はメグの方が余裕たっぷりに言ってのける。端から見ると形勢は完全に逆転していたが、両足と片腕が使い物にならず、魔力も全て使い果たしてしまったとなれば、決して余裕と言える状況ではない。武器がなければ攻撃を続けることはできそうにない。 吹き飛ばされて行方不明になった自分の鉾を探して、メグはきょろきょろと辺りを見回す。ちょうどそのとき、傍らで同じく吹き飛ばされていたアイがゆっくりと身体を起こそうとした。 「アイちゃん! 気がついたのね!」 「え……あ、メグ姉様……?」 足を引きずりながら駆け寄ったメグの腕の中で、アイは目を覚ました。最初の一言は夢うつつと言った様子だったが、その眼には徐々に意思の光が戻りつつあった。元々弱い暗示だったためか、何者かに操られている様子は今はもう全くなかった。 「わ、私……メグ姉様に……その……」 正気に戻ったアイが最初に感じたのは、羞恥にも勝る謝罪の気持ちだった。暗示によって操られていたとはいえ、アイの脳裏にはメグの身体の隅々を舐め、乳腺を、淫裂を犯し抜いた記憶がしっかりと残っており、生殖器たる触手にはその感触が生々しく残っていた。 「いいのよそんなこと気にしないで。言いたいことがあったら後でいくらでも聞いてあげるから、ね? それよりも今は……」 「あ……」 顔を赤くしてうつむき口ごもるアイを軽くたしなめて、メグは薄闇の奥へ視線を移す。そこには、相当に焼けただれて黒くなった肉塊が倒れていた。 男の身体から上がっていた炎は今は消え、焦げた臭いを放ち続けている。そこからはもはや人間のものとは思えないような怨嗟の声が、ぶつぶつと発せられていた。 「私は……私は……決して滅びない……私を否定する者は……決して許さん……うぐおおぉぉ……おおおおおおおぉぉぉっ!」 「……! いけない!」 怨念が肥大して形になったということだろうか。男はもはやゆらぎを操る者ではなく、ゆらぎそのものになり果てていた。 かつて胴だった巨大な肉塊からは肉色の触手が何十本も生え、本体から栄養分を吸い上げているかのように急成長して宙にうねっていた。 そこから発せられる威圧感は桁違いのものだった。まるで、かつてこの男によって『喜力』を吸われ『ゆらぎ』と化した者たち全ての怨念が込められているかのようだ。 両足と片手の機能を失い魔力も底を突いたメグ。半ばまでゆらぎに侵食されてしまったアイ。新たに生まれた強敵を前に、メグの頭に浮かんだのは「撤退」の二文字だった。 「逃げるのよ! アイちゃん! 帰還の魔法を!」 「はいっ!」 弾かれたようにアイは両腕を水平に突き出して、意識を集中させ始める。手のひらに魔力が集中し光を放ち始める。だがその後すぐに、アイは一つの重大な事態に直面して動きを止めた。 (魔力が足りない……?) メグ同様に消耗しきっていたアイの魔力では、自分たち二人に帰還の魔法をかけることは不可能だった。 「どうしたのアイちゃん? ちゃんと集中して……」 焦りの色を浮かべてメグは声をかける。その間にもゆらぎの成長はとどまるところを知らず、今や壁や天井の至る所に着床してわらわらと触手をうごめかせている。一刻の猶予もなかった。 アイは一瞬戸惑ったような表情を見せたが、すぐに再び魔力を集中し始める。その表情にはもはや迷いはなかった。 「アイちゃん……どうしてそんな思い詰めたみたいな顔……まさか……」 「メグ姉様、少しの間だったけど会えてよかった……いっぱい酷いことしておいて勝手な言い方かも知れないけど、メグ姉様の喘ぎ声、とっても可愛くて……私、嬉しかったです……」 「やめなさい! やめてお願い! 二人分の魔力がないんだったら私も残って闘うから! 私一人だけ逃げても、そんなの助かったことにならない!」 アイの意図を察して、メグは必死に制止しようと叫び唾を飛ばす。 悲壮感をまといつつもどこか諦めたようにさっぱりとした表情で、アイは言葉を続ける。 「大丈夫。ここを片づけたらちゃんと帰るから……待ってて……」 「ちょっと! 待ちなさ……」 自分でも信用のない「待ってて」だなと思いながら、アイは両手に溜まった魔力を解放した。まばゆい光が弾け辺りを包み込み、メグの言葉も姿もがかき消されてゆく。 光が消え去ったとき、そこには魔力をほとんど使い果たしたアイが一人ぽつんと佇むのみだった。 「ふぅ……」 無事に大事な人を逃がすことが出来たという安堵感と、また一人になってしまったという寂寞感から、アイはメグの居た空間を見つめて小さく溜息をついた。 |