「それで? おめおめと逃げ帰ってきたのですか?」

 廃ビルを改造して造られた建物の地下。暗い部屋のほぼ中央に据え付けられた幅3mはあろうかという巨大な椅子に、2mをゆうに越える身長でありながら、体全体を球で近似出来そうなフォルムの極度の肥満体を持った男が腰掛けていた。
 帰ってきた部下を尋問するその口調は穏やかながら、相手を蔑すんでいるようだ。

「は、はぁ……それがその女、何というか俺らとは強さの桁が違うっつーか、間違いなく殺されそうなというか……まあ、そういう雰囲気で……」
「いけませんねぇ。あなた方の役割は戦うことでしょう?」
「そ、それは……」
「全く……それ以外にはクソの役にも立たないというのに、いざ敵を目の前にして逃げ出してしまうとは……そんな腰抜けは必要ありませんねぇ」

 その口元がニヤリと歪む。
 男は巨体を椅子から起こし、立ちすくんで裁きを待つ3人の部下の前に立ちはだかった。手下の男達は、先刻アイから受けた威圧感とはまた別種の、巨大な体躯から放たれる威圧感に貫かれて動くことが出来ないでいる。

「『ゆらぎ』になっていただきましょう!」
「ひぃっ!」

 そう宣言すると男達の身体に変化が現れ始めた。
 不自然に身体がねじれ、全身の肉が搾り出されるように不規則な蠕動をし、肩や肘の骨が皮膚を突き破らんばかりに飛び出し始める。眼球がえぐり出されるように内から外へ圧迫され、目を大きく見開いた男達は、舌を限界まで突き出して奇妙な叫び声を発した。

「うごえぇぇ……ぎゅる、ぴぎぃぃっ!」
「がっ、かはぁ……あひゅうぅっ!」
「ククク、流れ込んできますよあなた方の『喜力』が。私の心を満たしてゆく……」

 次々と奇妙な断末魔の悲鳴を上げ、男達の肉体が千切れ跳んでゆく。
 宙を舞う肉塊は空中でその姿を黒ずんだ小さな軟体動物の身体に変え、ボトボトと音を立てて床に落ちた。
 径5mm、長さ15cm程度のミミズのような体つきをした異形の蟲が、コンクリートの床に表面から分泌する粘液を擦りつけながら、もそもそと動き回る。
 蟲が通った場所はまるでナメクジが這った痕のように粘度の高い液体に濡れてキラキラと輝いた。

「ふぅぅ、さほど美味ではなかったな……あの村の男の方が幾分かましなぐらいだ……それにしても、全く弱そうな生き物に変わりましたねぇ……弱い心を持っているからこんなつまらない生き物になってしまうのですよ。ま、使い道はありますがね」

 床に大量に飛び散った蟲を面白くもなさそうに集め、椅子の脇に据えられた筒状のガラス容器に次々放り込みながら、言葉を続ける。
 狭い容器の中では蟲同士が絡み合い、粘液と泡にまみれた異様な光景が出現していた。
 アイにとってはゆらぎが生まれる瞬間を見るのも、人間が細かい蟲状のゆらぎに変化するのを見るのも、そして他者を瞬時にしてゆらぎに変えてしまう者の存在を目の当たりにするのも、全て初めてのことだった。

「さて、そろそろ出てきて良いですよ。そこに隠れているのでしょう?」

 男は手を休めぬまま、柱の影に向かって呼びかける。
 完全に消していたはずの気配を読みとられたことに軽く動揺しながら、いつでも戦闘に移れるよう身構えたまま、アイは姿を現わした。

「ふぅん……少しは骨がありそうね……最初見たときは肉ばっかりだと思ったけど……」
「お褒めいただいて恐縮です……実のところ、あなたが隠れていることは、ついさっき気が付いたのですよ。さすがは異界の戦士、といったところでしょうか。気配の消し方は一級品だ」

 禿頭を撫でながらニコリと微笑む。こちらはアイと違って余裕たっぷりといった様子だ。
 この男がゆらぎや戦士についてどれほどの情報を持っているのかはともかく、ゆらぎを生み出す危険な存在で、始末しなければいけない人物であることは確かだった。

「……恐ろしい眼だ。警戒していますね? だが同時に不安を隠している……フフフ、気になりますか? 私が何をどこまで知っているのか、どうやってコレを生み出したのか、まだ手の内を隠しているのではないか……」
「……」

 構えたまま無言で間合いをとるアイを見据え、男は手にした黒いナマコのような蟲をもてあそびながら言葉を続ける。

「ご安心を。あなたのような強い意志を持つ方をすぐに『ゆらぎ』にするのは私の力でも不可能ですから。だが、それもまた良い。時間をかけてじっくりと……仕上がりはさぞかし美味な……グフ、グフフフフフフ……」

 男は頬肉をタプタプと揺らして不気味な含み笑いを漏らす。まるで皮脂がこびりついてくるような、ねっとりとしたいやらしい口調だ。
 嫌悪に見舞われたアイが発しようとした言葉を遮って、男はさらに続ける。

「この世界にはねえ、『喜力』が不足しているんですよ」
「?」

 唐突に耳慣れない言葉を聞かされ、アイは困惑の色を浮かべた。

「造語ですけどね――飢えとか不安とか絶望とか、そういった負の感情と対をなす感情です。これが不足すると人はその姿を保つことが出来なくなり、こういった異形の者に姿を変える……」
「どういうわけか私には他の方の『喜力』を吸い取る力があるみたいでねえ、おかげでいつも余裕で居られる。それに盗賊の頭をやってゆくには便利な能力で……」
「あの村の男もそうやって始末したのね」
「まあそんなところです。刃向かったりしなければあんなことにはならなかったんですけどねぇ……あ、そういえばあなたのお仲間にも居ましたよ、愚かにも私に闘いを挑んできた女戦士がねえ」
「! まさか……!」

 最悪の想像がアイの脳裏をよぎった。一瞬遅れてわき起こった怒りが、冷静だった思考を覆い隠してゆく。

「今はゆらぎ共のいい餌になっていますがね。そういえば『ゆらぎ』という呼び名を教えてくれたのも彼女でしたっけ……ん? どうかしましたか?」
「貴様ぁっ!」
「ぬぅっ!?」

 一太刀で届く間合いまで近づいていたアイはその場で地面を蹴ると、真っ直ぐに鋭いロッドの先端を、無防備に晒された巨大な腹へ突き立てた。ずぶりという擬音とともに、ロッドの半ばまでが腹の肉の中にめり込んでゆく。

「――!?」

 手に伝わってきた感触は、アイがかつて経験したことのない奇妙なものだった。
 当然予想されたはずの肉を突き破る手応えがない。いや、それどころかアイがいくら力を加えてもロッドはピクリとも動かないのだ。
 腹からロッドを生やしたまま男は、その他端を持って信じられないといった表情をする少女を見下ろし、小さく鼻を鳴らした。

「ホッホッホ、驚きましたか? 私の身体は特別製でねえ。どんな鋭利な刃物も突き刺すことは不可能。どんな重い鈍器でも叩きつぶすことは不可能。全ての攻撃はこうして吸収されてしまうのです。私に挑みかかってきた者は全てこうやって殺されてきたのです……よっ!」
「くっ……」

 二の腕の周囲を測ったら1mはあろうかという太い右腕が唸った。風音を聞いてとっさにロッドを離し、アイは後ろに跳ぶ。
 アイはごろごろと地面を転がりながら、つい今しがたまで自分が居た空間を重い拳が行き過ぎるのを見た。まともに食っていれば一撃でKOは必至だっただろう。

「なるほど大した運動神経だ。しかし、これはどうですか…………ぬううぅんっ!」

 一つ鼻から息を吐くと、弛んでいた男の腹の皮膚が一気に張りつめた。それと同時に突き刺さっていたロッドが回転しながら、起きあがって姿勢を直したばかりのアイに向かって飛んでゆく。

「うっ……」

 うなりを上げながら飛来する凶器を必死に身をよじってやり過ごす。再び崩れた体勢から向き直ったアイが見たものは、視界いっぱいに広がる巨大な肉の壁だった。

「――っ!」

 反射的に拳を繰り出す。
 だがその右腕は当然のように肉の壁にめり込み、ずぶずぶと奥へ奥へ吸収されてしまう。瞬く間に二の腕までを脂ぎった肉塊に固定され、アイはその場から動けなくなった。

「しまっ……」
「チェックメイトです」

 小さく舌打ちするアイの顎先を、常人の頭と同じぐらいの質量がありそうなほどの巨大な平手が力強く捕らえる。ゴツリと鈍い音がして華奢な身体がコンクリートの床に叩きつけられ、大きくバウンドした。

「ぐ……が……」

 全身を貫く衝撃に呼吸が出来ない。

「ホッホッホ、意外に大したことありませんでしたねえ」

 身体が痺れて立ち上がることが出来ないアイの頭上で、悪い笑い声が響き渡る。衝撃に脳震盪を起こし、アイの視界は左右に揺れていたが、程なく目を開けておくことが出来なくなり、同時に意識も闇の中に吸い込まれていった。


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